八幡山トーク パネルディスカッション 「人生100年 どう生きるか」

会 場
小田原高校集成館ホール (視聴覚室)
時 間
11:30 ~ 12:30
演 題
「人生100年 どう生きるか」
MC  日本人の平均寿命は、厚生労働省の統計によりますと、2019年に女性が87.45歳、男性が81.41歳となり、ともに過去最高を記録しました。女性は5年連続で香港に次ぐ世界2位、男性は香港、スイスに続く世界3位の座を3年連続で守りました。
 世界は今、新型コロナウイルス感染症という危機の時代を迎えていますが、「人生100年時代」の到来という大きな潮流は変わらないでしょう。
 温暖な気候に恵まれた小田原の地で、長寿社会をどう生きるかを議論することは意義深く、時宜にかなっています。市川様は「シニアネットワークおだわら&あしがら」(SNOA)を設立され、河野様は歯科医療を通じて市民の健康増進に貢献されています。星野様は明治以降の生活文化を記録することでこの地域の歴史を掘り下げ、志村様は農薬化学肥料を使わない稲作文化を第一線で継承しておられます。
 日本は確かに世界有数の“長寿国”ですが、介護を受けたり、寝たきりになったりせずに生活できる「健康寿命」は男女ともに70代前半にとどまっています。どうしたら健康で豊かな人生を送れるか、パネラーの皆様に大いに語り合っていただきたいと思います。
泉 宣道 氏 (高23) 1952年生まれ
1971年 小田原高校卒業
  • 1977年
  •  ~
  • 2018年
  • 早稲田大学政治経済学部卒業
    ㈱日本経済新聞社入社
    マニラ支局長、政治部次長兼編集委員、北京支局長、中国総局長、アジア部長、論説副委員長、常務執行役員大阪本社編集局長、専務執行役員名古屋支社代表、公益社団法人日本経済研究センター研究主幹などを経て退職
2018年 公益財団法人ニッポンドットコム諮問委員(現職)
2019年 日鉄鉱業㈱社外取締役(現職)
  • 2020年
  • 学校法人佐野学園評議員(現職)
パネラー
 30年近い銀行員生活後に勤めた横浜のIT企業を63歳で退職する際、改めて今後の人生について考えました。人生100年時代が叫ばれる中、平均的にみてもあと20年、元気で健康的な生活を送るためにはどうしたら良いか? 同じ頃小田原市では「プロダクティブ・エイジング」という、シニアを介護や助けが必 要な社会的弱者ではなく、その知識や経験で社会を変えていく力のある存在として地域で活躍してもらおうと新たな取組を進めていました。 そこで、5年前に小田高と銀行の仲間6人で、「シニアネットワークおだわら&あしがら」(SNOA)を立ち上げ、地元で居場所作りを始めました。UMECOを中心に毎月ミニ講演会を開催し、耕作放棄地でのみかん栽培や中高校生向けの学習支援を行い、今では厚労省が後押しする「小田原市生涯現役推進協議会」の主要メンバーとしても活動を広げています。 会員有志による趣味の活動も盛んで、2019年10月には、内閣府から「エイジレス・ライフ実践事例」として表彰を受け、現在の会員数は170名余りです。
  • 市川 公雄 氏 (高22)  1952年生まれ
1970年 小田原高校卒業
1974年 東北大学経済学部卒業
2003年 (株)横浜銀行退職
2015年 (株)アイネット退職
2015年
  • シニアネットワークおだわら&あしがら設立
  • (代表理事)
連絡先 snoa.ichikawa@gmail.com
「人生100年 どう生きるか」
私が歯科大学を卒業して40年以上過ぎました。これまで1日も診療を休む事なく来れたのも、健康である事と、日々皆に助けられたからで、感謝しかありません。 昔から『目は心の窓、口歯は健康の入り口』と言われています。健康の入り口を担当する歯科医としては責任重大です。 小田原は神奈川県下でも高齢化率が高く、歯科医師会会長の時には高齢者の訪問歯科診療の充実など、頭を悩ました思いでがあります。訪問だけでなく、施設での対応など、まるで底無し沼の様に次から次へとやらなければならないことが湧いてきて、行政とも連携して事業を進めて行きましたが、『これから大変な時代を迎えるな』と感じていました。 専門は小児と矯正歯科でしたから、小さいお子さんとは毎日会っています。そこで、健康教育は早くから行う方が良いのではないかと考え、お母さんも、生まれてくるお子さんにも健康になってもらう為、妊婦歯科健診を始めました。 生きることは食べることでもありますが、麻痺や障害があると食べるのも一苦労です。そこで摂食嚥下診療も始めました。 改めて食べることの大切さを知って頂き、皆さんと一緒に健康で100年生きる事を考えてみたいと思います。
  • 河野 力 氏 (高23) 1952年生まれ
1971年 小田原高校卒業
1978年 神奈川歯科大学卒業
1983年
  • 小児歯科、矯正歯科専門 “こうの歯科開業”
  • 〜現在に至る
  • 2009~13年
一般社団法人小田原歯科医師会会長歴任 
在任中に妊婦歯科健診制度の創設、成人歯科健診制度改革(80歳まで行う)
歯科医師会創立90周年事業で「命を大切にする小田原」を掲げた前小田原市長加藤氏による講演を行った
東日本大震災発生時、一市三町に防災関係の寄付を行う
会長在任中は小田高時代の同級生の力を借り会務を行う事が出来た事に感謝
  • 現在は以下の活動も診療と併せて行う
    小田原市立矢作小学校歯科校医 
  • 西大友保育園歯科園医 
    富士学園歯科園医(2ケ所) 
  • わらべの杜歯科校医
    資格
    自立支援指定医療機関(口唇口蓋裂の矯正歯科治療、顎変形症の矯正歯科治療) 歯学博士 
    趣味
    ワインを楽しむ、ゴルフ、テニス、ウオーキング、絵を描く事
★人生100年時代のこれからの30年をどう生きるか★
 奥津さんから御題をいただいて、改めて考えて見ると、なんと難しい御題なのだろうとうなってしまいました。私は、大学を出てから皆さんと違って職種は同じ明治以降の近現代史の自治体史の編集ではあるが、正職員として同じ会社で席を暖めたことはなく、流浪生活を送ってきました。そのせいか、その時々の状況に対応した生きるすべを意識することもなく身につけてきました。現在もなお認知症を発症した2人の母と共に過ごす中から、長い人生設計を考えるのではなく、より近い年限を設定し、ここまでに何が出来るかを考えるようにしています。きっと私の身体的状況の変化に応じていくつかの期間が設定されるであろうことはもちろんであります。その考えの基になっているのは、介護の現場の人たち、人生の諸先輩からのサジェスチョンです。あんまり頑張らない、寛容であれ、趣味を積極的に取り入れる、ボランティア活動を通じ様々な方たちと交流をする、日記をつける等です。
なかでも仕事柄歴史的記録と接触することの多い私にとって、明治・大正・昭和時代の地域の生活文化を記録することはなかば趣味と化していて、それらを後世に伝え残していくことが私に課された使命と感じて第1段階の行動を起こしている最中です。
  • 星野 和子 氏 (高23) 1952年生まれ
1975年
  • 中央大学法学部卒業
  • 神奈川県企画調査部県史編集室嘱託
  • 近現代資料編纂に従事
1977年 神奈川県退職 1981年まで埼玉県与野市・岩槻市で 市史編纂事業に従事
1982年 小田原市企画部市史編纂室嘱託(2003年まで)
2003年
  • 山北町教育委員会生涯学習課町史編纂資料調査員
  • 山北町史通史編編纂従事(2006年まで)
2004年 小田原市史ダイジェスト編集・小田原市立図書館臨時職員として所蔵資料整理に従事 現在に至る
2009年 伊勢原市教育委員会文化財課市史編纂調査委員、通史編并にダイジェスト編集に従事(2019年まで)
  • 2018~19年
伊勢原市史編纂委員
2015年 山北町文化財保護委員 現在に至る

★現在、私が取り組んでいること★
実家の米屋をやりながら小田原市内の2.7ヘクタールの田んぼで農薬化学肥料を使わずに米作りをやっています。農業体験の幼稚園の子供たちや、職業体験で来た中学生や高校生、また、刑務所を出たばかりで仕事がない方や、障害を持った方など様々な方々が田んぼに来ます。いろいろな年代のいろいろな方に田んぼに来ていただき、田んぼの気持ちよさを感じていただき、田んぼの良さを知っていただきたい。田んぼは、お米を栽培する以外も様々な働きがある。空気を浄化してくれる場所、暑さを和らげてくれる場所、大雨の時にダムの役割をしてくれる場所(近年特に重要)、子供たちが育っていく過程で必要な体験を与えてくれる場所、訪れた人々に癒しや安らぎをもたらしてくれる場所。しかし、年々市内の田んぼは減っています。私たちの時代で田んぼを壊してしまって良いのでしょうか?将来、小田原を背負っていく子供や孫たちに田んぼを残してほしかったと言われないでしょうか?小田原産のお米の生産や販売すること、多くの方に田んぼに来ていただき、田んぼの良さを知っていただくことぐらいしか私にはできていません。田んぼを残していくのに何かもっと良い方法がないものかと考えています。

  • 志村 成則 氏 (高44) 1973年生まれ

小田原市浜町の志村屋米穀店の長男として生まれした。幼い頃から、海、川、湖、田んぼで遊び、生き物飼育、魚釣り、スクーバダイビング、サーフィンなど、小田原の豊かな自然環境の中で育ちました。将来は好きなこと、やりたいことを仕事にとの思いで、海洋環境調査会社に就職し潜水士として働き、日本全国の海を調査。そこで一緒に仕事をした漁師や農家と出会い、「仕事は楽しいが、儲からないので、息子には継がせない」など話を聞きました。漁業や農業の仕事を手伝わせてもらううちに、第一次産業に興味を持つようになり、自分が一生の仕事としてやりたいことだという確信が持てたので、稲作を始めることを決意、28歳で退職。実家の小田原に戻り、知り合いの農家で研修。実家の米屋にはあまり興味がなかったが稲作をやり続けるには販売が重要だということに気がつき、米屋をやりながら稲作を続け現在米作り19年。農薬化学肥料不使用の田んぼを拡大し、小田原の環境が良くなり、次の世代に日本の宝である田園風景、稲作文化を残していくことが自分に与えられた使命だと気付き、残りの人生をそこに費やす覚悟でいます。