- 「老人力」という言葉が、20世紀末に流行った。それは「テキトー」つまり「反努力」だと、その仕掛け人、赤瀬川原平は言う。彼の活動は、前衛芸術から漫画、小説家、路上観察、ライカ同盟と実に幅広かったのだが、根底には、いつも「見ること」があった。とすると、「テキトー」に見るのも、老人の特権、悪くなさそうだ。当たり前のことだが、人は老いる。時に眼の病にかかるし、そうでなくとも、まちがいなく視力は衰える。むろん、それは「見えなくなる」ということを意味するわけではないし、あながち悲観すべきことがらでもない。モネが、晩年、白内障を患うなかで、かの傑作《睡蓮》のシリーズを描いていたことは、よく知られている。そう日本でも、齢八十六にして、力溢れる《怒涛図》を描いた葛飾北斎がいた。どうやら、年老いてこそ、見えてくるものがあるようだ。ギリシアの哲学者プラトンは、自由人の生涯学習プログラムを、こう説いた。教養諸学を修め、公務に就いて経験をつんだ後、50歳になって、最高の原理たる「善のイデア」の認識に到達し、国務にあたることができるという。男の平均寿命が44歳といわれた時代のことである。今日、未踏の長寿社会にあって、私たちには、これから先、思っていた以上に長い道のりが残されているらしい。そして、その途上、あたりに目をやれば、限りない視覚世界が広がっているのである。先人たちの見る力、「テキトー」に見る力を紹介しながら、その悦びと楽しさについて語ってみよう。
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