八幡山トーク2024 「小田原藩とペリー来航」 11:30~12:30 視聴覚教室(集成館ホー ル)

「BAY OF WODOWARA」とはどこなのか?

~学会も注目の「ペリー艦隊の航海日誌」への道~

日時:5月12日(日)11:30~12:30
会場:小田原高校 視聴覚室(集成館ホール)
講師:奥津 弘高(高22)郷土資料研究家、横浜黒船研究会会員
定員:400名(入場無料:どなたでもご入場いただけます)

講演概要

 江戸時代末期になると外国船が頻繁に来航し、相模湾や江戸内海へも許可なく入港する船が訪れるようになります。 下田から大磯までの相模湾沿岸の海防を担当した小田原藩は、韮山代官江川太郎左衛門英龍(担庵)の設計により小田原台場を建設し、外国船の攻撃に備えました。 日本を開国しようと訪れたペリー提督来航に小田原藩はどのように対応したのか、地元小田原の資料とアメリカ側資料を対比して解説します。 ペリーのお抱え画家ハイネは相模湾の艦上から富士山を描き、その原画を基に作成された石版画は「BAY OF WODOWARA」(小田原湾)と題して、米国議会報告書『ペリー艦隊日本遠征記』に掲載されています。  小田原湾とはどこなのか、ペリーらは小田原沖で何をしていたのかについて、アメリカ側の資料を調査し謎の解明に挑みました。 当初ペリーは戦争をも辞さないとの方針を海軍長官へ伝えましたが、フィルモア大統領は戦争を回避するよう訓告を発しました。 第2回目ペリー来航の嘉永7年(1854)2月、小田原藩隠密・佐藤又座衛門直信は浦賀ならびに神奈川へ派遣され、ペリー艦隊の動向や日本側各藩の防備について諜報活動を行ないました。  調査報告書は日記形式で筆記され、「異国船御用二付浦賀幷神奈川日記」と題して藩主大久保忠愨(ただなお)に提出されました。 隠密佐藤直信はどのように情報を収集したのか、初公開の古文書資料をスライドで提示して解説します。 この日記は幕末の隠密の活動記録として学術的に大変貴重な歴史資料であり、今後ペリー来航の歴史学的研究に寄与することを期待しています。 日米の互いの饗応により交渉ムードが好転し友好的に開国交渉が始まると、日本人の交渉力に圧倒されたペリーは通商条約の要求を取り下げざるを得ず、嘉永7年3月3日に日米和親条約として締結され、小田原藩も海防を担当した下田港が開港されました。 今年は下田開国170周年にあたり、下田市や下田開国博物館で記念イベントが開催されている。

C.Blue横浜へ向かうペリー艦隊(ニューヨーク公共図書館蔵)

ハイネ画ペリー浦賀上陸図(TOPPANホールディングス株式会社 印刷博物館蔵)

講師プロフィール

奥津 弘高(高22)
郷土資料研究家、横浜黒船研究会会員
小田原高校(高22)、明治大学卒業。
2010年論文「相模湾における汽船交通史」が小田原市郷土文化館研究報告第46号に掲載される。 相模湾に初めて現れた蒸気船がペリー艦隊と知り、2004年頃よりペリー日本遠征の調査を始める。 ペリー提督が帰国後の米議会報告書に魚や貝、鳥、動物など日本の生物に関する調査報告を掲載したことに注目。20年間の調査研究をまとめ、ペリー来航170周年にあたる

2023年の7月に『ペリー艦隊の航海日誌』を出版。